「幕府支配を目論んだ専制君主」後鳥羽上皇の倒幕計画
戦う天皇の秘史「承久の乱」と「南北朝の戦い」での 2人の天皇の勇壮無比の活躍は真実か? 第1回
「承久の乱」の後鳥羽上皇と、「南北朝の戦い」の後村上天皇。戦う2人の天皇の、勇壮無比の活躍は果して真実なのか? 戦う天皇の秘史に迫る連載、まずは「承久の乱」の後醍醐天皇にスポットを当てる。
自らの意のままとなる将軍を据え、武家側に影響力を行使!
寿永2年(1183)という年は、日本の歴史上大きな出来事が続いた一年であった。すなわち同年8月、高倉天皇の第四皇子尊成親王が祖父後白河法皇の詔によって践祚した。わずか4歳の第四皇子が突然、三種の神器を伴わぬまま即位した。すなわち、後鳥羽天皇の誕生である。7月に三種の神器を携えた安徳天皇を奉じて平家が都落ちするのと入れ替わるかのように木曽義仲が入京した。10月には、東海・東山諸国に対する裁判権・強制執行権・警察権など行政権の一部が鎌倉の源頼朝にゆだねられた。
ところが後鳥羽天皇は、建久9年(1198)、19歳で土御門天皇に譲位し、ただちに院政を開始した。しかし、実権を握ったのは院庁の別当でもある源(土御門)通親であった。通親は後鳥羽天皇の乳母高倉範子と再婚し、後白河法皇の近臣として活動するかたわら、その娘を後鳥羽の後宮に入れ、男子が誕生していた。後の土御門天皇である。後白河法皇が没すると、関白九条兼実を排斥し、土御門天皇の外戚として権力を掌握した。
その通親が建仁2年(1202)に急死すると、23歳の後鳥羽上皇は土御門天皇を譲位させ、その弟順徳天皇を立て、権力の強化につとめた。たとえば、皇族が分割支配していた皇室領荘園を皇子六条宮や順徳天皇に相続させ、上皇の経済的基盤に組み込んだのである。また、上皇はこれまでの天皇・皇族にみられないほど武芸の鍛錬に率先するばかりか、「北面の武士」に加えて「西面の武士」を新設し、武力基盤も強化していった。
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